主観世界が覆る
最近、まだまだまだまだまだまだまだまだ、世界はいろんな見方が出来ると痛感します。
頭ではわかっていて、日々の細々とした葛藤からそれを類推しても、
それこそ仮にそれを言語化していたとしても、やはりそれは意見の正当性の保持と、
反論回避のための防衛線として使われているにすぎないのかもしれない、と感じます。
色々な本やドラマ、映画などから、先人たちの知恵や失敗が「知識」として事前に手に入り易すぎる今日この頃、
別に自分は経験主義者ではありませんが、
それでも身をもって痛感する機会というのも本当に大事だなと感じます。
自分のずっと信じてきたものが、単なる偏見にすぎないと気づく。
自分のずっと抱えてきた悩みが、ただの責任転嫁だったり、
問題をわかりやすくするための悪者作りだったと思う。
たった23年間ではありますが、それでも自分と等身大の時間で醸造してきて、
その結果そこに見えたものは思っていたものとは大分違いました。
もちろん、そういう偏見も、必ずしも大外れではないんですが、
でもやっぱりそれは、一側面でしかない。
この間、ある研究に参加してある種の障害を抱えた子ども達と、
どう関わっていくか、ということについて博士の人たちに教わりました。
そこでは、研究参加者同士のロール・プレイ(模擬実践的なものです)を通して、
①注意点の確認
↓
②模範
↓
③自分で模擬実践
という形で実際の技法を伝授してもらうということが行われました。
たまに、「ただ子どもと楽しそうに遊んでるだけじゃないか」みたいな言葉を聞きます。
しかし、そうやって子どもと、「楽しそうな雰囲気を崩すことなく」一緒に遊ぶ為、
その上そこに、子どもの発達の上での課題さえ盛り込みながらそれをやってのけるというために、
あの人達がどれだけの工夫と、努力を費やしているのかというのをその研究の中で感じました。
「こんな時どうしますか?」と言われて何も自分が答えられない一方で、
どこから出てくるんだと思うほどアイディアが彼らからは溢れ出て、
かつそれを臨機応変に実践してみせる。
本当にすごいな、と思います。
突然ですが、↓はYouTubeより。修論を見据えて、ということでいじめ関連のもの。
Bullied to death ( You Tube)
なんということもなく、亡くなった人々の生前の写真が流れるだけと言ってしまえば確かにそうなのですが、
それでも、下手な報道より、なんだか訴えかけてくるものを感じました。
しかし、寄せられるコメントでは今も言い争いが絶えない様子。
このての動画を載せるのは好きじゃないんですけど、でもまぁ実際思うところもあったので。
ただ、決してどちらかが変だ、と思ってるとかではなく。
アプローチの仕方、言葉づかい。
自分がやる時は、相手が何を気にするかわからないという心構えで気を付けてしかるべきですが、
他人の話を聞く時に、形式的な側面に引っ掛かって、
その根源にある思いや願いの、共通点などが見えなくなるとしたら、
そしてそのためにそこにすれ違いが生ずるとしたら、
それは一つ残念なことだな、と思うのです。
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